アキーダとイバーダ【はじめに】【第1部 アキーダ (信仰箇条)】

イスラームとはアキーダとイバーダ
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はじめに

イスラームとは

『本当にアッラーの御許の教えはイスラーム(主の意思に服従し、帰依すること)である』イムラーン家章(第3章)19節

イスラームとはアラビア語で平和、従順、服従などの意味を持ちますが、一般的には「アッラーのみへの帰依」を表し、全人類のためにアッラーからもたらされた教えを指します。それは最初の預言者アーダム(彼の上に祝福と平和あれ)から最後の預言者ムハンマド(彼の上に祝福と平和あれ)までの、すべての預言者を通してもたらされた教えです。かれらの呼びかけはどれも唯一神アッラーへの帰依と服従でした。そしてアッラーは、預言者たちの封印としてムハンマド(彼の上に祝福と平和あれ)を選ばれ、彼に啓示を下し、終末の日まで有効な全人類のための教えイスラームを完成されたのです。

『・・・今日われはあなたがたのために、あなたがたの宗教を完成し、またあなたがたに対するわれの思恵を全うし、あなたがたのための教えとして、イスラームを選んだのである。・・・』食卓章 (第5章)3節

一方、ムスリムとは自分を全宇宙の創造者アッラーの法にゆだね、アッラーだけに帰依し、服従する人という意味です。

イスラームは信仰と日常生活を切り離して考えることはしません。イスラームは、支配者であり立法者であるアッラーに帰依服従する人間の、個人として、また社会の一員としての行動規範でもあります。それは国家や民族、人種や肌の色、職業や貧富の差、性差などに関係なく、終末の日まで通用する指針です。イスラームは生き方であると言えます。

『宗教には強制があってはならない。まさに正しい道は迷誤から明らかに (分別)されている。それで邪神を退けてアッラーを信仰する者は、決して壊れることのない、堅固な取っ手を握った者である。アッラーは全聴にして全知であられる。』雌牛章 (第2章)256節

このように、アッラーは信仰の強制を禁じておられます。ですから誰でも信仰を強制されることはありませんし、強制することも出来ません。自らの意志でこれを真理であると認める人は誰でもムスリムになれます。

ムスリムになるためには、次のカリマ ・シャハーダ、つまり信仰告白文によってシャハーダ (証言)を します。

アシュハドゥ アンラー イラーハ イッラッラー
私はアッラー以外に崇拝の対象がないことを証言します。
ワ アシュハ ドウ アンナ ムハンマダン ラスァルッラー
そして私はムハンマ ドがアッラーの使徒であることを証言します。

シャハーダはイスラァムの五つの柱のうちの一つ目です。五つの柱とは、ムスリムがアッラーによって定められた条件と方法で行なうことが義務とされているもので、以下の通りです。

シャハーダ (証言)
サラート (礼拝)
ザカート (喜捨)
ハッジ (巡礼)
サウム (斎戒/断食)

また、五つの柱と並んでイーマーンの柱とされるものがあります。イーマーンの柱とは、アッラーによって与えられた知識に基づき、ムスリムが確信をもって信じることが義務とされているもの、以下の通りです。

アッラー (唯一神)
マラーイカ (諸天使)
クトゥプ (諸啓典)
ルスル (使徒たち)
アルヤウム・ル アーヒル (終末の日)
カダル (定命)

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第1部 アキーダ (信仰箇条)

イーマーンとは

アプー・フライラによると、アッラーの使徒はこう言われました。
「イーマーンは70以上もしくは60以上の種類があります。その最善なるものはアッラーの他にイラー (崇拝の対象)はないと証言するここであり、最も小さなイーマーンとは道路から邪魔になるものを片付ける行為です。謙譲もイーマーンの1つです。」(プハーリー、ムスリムの伝えるハディース)

またある日、天使ジプリールが男性の格好をして預言者 (彼の上に祝福と平安あれ)の前に現れ、イスラームやイーマーンなどについて尋ねました。 ウマルによると、イーマーンについて尋ねられた預言者 (彼の上に祝福と平安あれ)は次のように答えました。

アッラー、その天使たち、諸啓典、使徒たち、終末の日について信じ、善悪に対するカダルを信じることです。」(ムスリムの伝えるハディース)

これら二つのハディースは、次のクルアーンのアーヤ (節)に よって裏付けられます。

『正しく仕えるということは、あなたがたの顔を東または西に向けることではない。つまり正しく仕えるとは、アッラーと最後の (審判の)日 、天使たち、諸啓典と預言者たちを信じ ・・・』雌牛章 (第2章 )177節

『使徒は主から下されたものを信じる、信者たちもまた同じである。(かれらは)皆、アッラーと天使たち、諸啓典と使徒たちを信じる。私たちは、使徒たちの誰にも差別をつけない (と言う)。』雌牛章 (第2章 )285節

一方、カダルに関しては次のように言われています。

『本当にわれは凡ての事物を、きちんと計って (カダルに合わせて)創造した。』月章 (第54章 )49節

 

1、アッラー (唯一神)

『 ・・・それで邪神を退けてアッラーを信仰する者は、決して壊れることのない、堅固な取っ手を握った者である。・・・』 雌牛章 (第2章 )256節

「『アッラー以外に崇拝の対象はない』 との真理を十分知って死を迎える者は、天国に入る。」(ムスリムの伝えるハディース)

アッラーとはアラビア語で 「唯一神」を意味します。ですから 「アッラーの神という言い方は間違いです。アッラーとは人間を含むこの世のあらゆるものの創造者であり、あらゆる力の源泉であり、世界の生きとし生けるもの全てを養っている養護者です。人間が生まれてきたことも、考えたり話したり食ベたりして生きていることも、すべて慈悲深い支配者アッラーの力によるものです。大自然が美しいことも、この世界が一定の法則によって動いていることも、すべてアッラーがこの世界をデザインし秩序付けているからなのです。

アッラーは唯一の御方です。 この世界が一貫した秩序に基づいて動いているのは、この世界をデザインし創造した存在が唯一だからです。ただひとつである、ということは、単に一であるということだけではなく、全能であり、至高の存在であるということです。アッラーに並び立つものや、同じ程度の力を持つものはありません。

また秩序正しく動いている世界を司るアッラーには、欠点や弱点はありません。体養、食事、睡眠なども一切必要としません。

そしてアッラーには生みの親や妻や子供はいません。アッラーは決して死なないので、子孫を残す必要はありません。アッラーは時間も空間も超越しており、アッラーに似たものはありません。

アッラーは目に見えないことも、人間の心に隠していることも全てご存じです。そこで人間は祈るとき、直接アッラーに呼びかければよいのであって、聖職者や聖者や偶像を仲介する必要はありません。

『アッラー、かれの外に神はなく、永生に自存される御方。仮眠も熟睡も、かれをとらえることは出来ない。天にあり地にある凡てのものは、かれの所有である。かれの許しなくして、誰がかれの御許で執り成すことが出来ようか。かれは (人びとの)以前のことも以後のことをも知っておられる。かれの御意に適ったことの外、かれらはかれの御知識に就いて、何も会得するところはないのである。かれの玉座は、凡ての天と地を覆って広がり、この2つを守って疲れも覚えられない。かれは至高にして至大であられる。』雌牛章 (第2章 )255節

アッラーの被造物である私たち人間が、私たちの創造主であり養護者であるアッラーに感謝しなかったり、アッラーをさしおいて他の何の力もないものに祈ったりすることは、アッラーに対して非常に恩知らずなことです。「アッラーのほかに崇拝の対象はない」とは、架空の偽の神や偶像をすべて否定して、ただ真実の神アッラーのみを信じ、アッラーのみに従うという意味なのです。

アッラーの存在を信じる アッラーの存在を信じる

ムスリムは全宇宙を創造したアッラーの存在を信じます。天と地とそこにある全てのものはアッラーの創造物であり、アッラーの支配下にあります。森羅万象はアッラーが存在することの証です。

『本当に天と地の創造、昼夜の交替、人を益するものを運んで海原をゆく船の中に、またアッラーが天から降らせて死んだ大地を甦らせ、生きとし生けるものを地上に広く散らばせる雨の中に、また風向きの変換、果ては天地の間にあって奉仕する雲の中に、理解ある者への (アッラーの)印 がある。』雌牛章 (第2章)164節

また、私たちのドゥアー (祈り)が 聞き届けられるのも、アッラーが存在することの証の1つです。

『われのしもべたちが、われに就いてあなたに問う時、(言え)われは本当に(しもべたちの)近くにいる。かれがわれに祈る時はその嘆願の祈りに答える。』雌牛章 (第2章)186節

 

アッラーが唯一のラップ (主)で あることを信じる アッラーが唯一のラップ (主)で あることを信じる

ラップとは創造者であり、所有者であり、支配者であることを意味します。

つまリアッラー以外に創造者も所有者もおらず、アッラー以外からの命令はないと言うことです。

『(かれは)天 と地、またその間にある凡ての有の主であられる。だからかれに仕え、かれへの奉仕のために耐え忍びなさい。あなたはかれと肩を並べ呼ぶものを (外に)知っているのか。」』マルヤム章 (第19章)65節

 

『本当にあなたがたのラップ (主)は アッラーであられる。かれは6日で天と地を創り、それから玉座に座しておられる。かれは昼の上に夜を覆わせ、夜に昼を慌ただしく相継がしめなされ、また太陽、月、群星を命に服させられる。ああ、かれこそは創造し続御される御方ではないか。万有の主アッラーに祝福あれ。』高壁章 (第7章)54節

『かれは夜を昼に没入させ、また昼を夜に没入させ、(昼夜の交替)、太陽と月を従えられ、それぞれ周期をもって定められた期間 (復活の日)まで (その軌道を)運行さしめる。このようなことが (出来るのは)あなたがたの主、アッラーであられ、大権はかれに属する。』創造者章 (第35章 )13節

 

アッラーが唯一のイラー (崇拝対象)であることを信じる アッラーが唯一のイラー (崇拝対象)であることを信じる

アッラー以外に崇拝の対象はなく、アッラーには協力者も同位に並ぶものもないことを信じます。そして、イバーダ (信仰行為)はただアッラーだけに向けられるものであり、いかなる形であっても被造物に向けられるべきではありません。預言者たちや信仰深い人、マラーイカ (天使)や ジン、自然なども、これらは全てアッラーの被造物であり、アッラーの許しなくしては何の力も持っていないのです。ですから、糧や健康、助けなどを求める対象はアッラーだけであり、恐れや期待を抱く対象も、依存する対象も、犠牲を払う対象もアッラーだけなのです。

『あなた方の神は唯―の神 (アッラー)である。かれの他に神はなく、慈悲あまねく慈愛深き御方である。』雌牛章 (第2章 )163節

『(祈って)言ってやるがいい。「わたしの礼拝と奉仕、わたしの生と死は、万有の主、アッラーのためである。』家畜章 (第6章)162節

 

アッラーの美名と属性を信じる アッラーの美名と属性を信じる

クルアーンと真正なハディースの中で、アッラー御自身とアッラーの使徒 (彼の上に祝福と平安あれ)によって語られたアッラーの美名と属性を信じます。

『アッラー、かれの外に神はないのである。最も美しい御名はかれに属する。』ター・ハー章 (第20章)8節

『かれこそは、アッラーであられる。かれの外に神はないのである。かれはガイブ (幽玄界)とシャハーダ (現象界)を知っておられ、慈悲あまねく慈愛深き御方であられる。かれこそは、アッラーであられる。かれの外に神はないのである。至高の三者、神聖にして平安の源であり、信仰を管理し、安全を守護なされ、偉力ならびなく全能で、限りなく尊い方であられる。アッラーに讚えあれ。(かれは)人が配するものの上に (高くおられる)。かれこそは、アッラーであられる。造物の主、造化の主、形態を授ける (主であり)、最も美しい御名はかれの有である。天地の凡てのものは、かれを讚える。本当にかれは偉力ならびなく英明であられる。』集合章 (第59章 )22-24節

2、マラーイカ (諸天使)

『主を畏れる者たちとは、ガイプ (幽玄界)を信じ・・・』雌牛章 (第2章 )3節

アッラーの様々な創造物には、ガイプ (幽玄界)のものとシャハーダ (現象界)のものがあります。シャハーダの世界は私たちの五感によって知ることができますが、ガイプの世界についてはアッラーが使徒を通して下された情報しか人間は知ることはできません。これらについて、人間は多くのことを知らされてはいません。

ガイプの被造物のひとつが天使であり、ムスリムはその存在を信じます。天使は常にアッラーを讃美し、アッラーの命令によって様々な任務についています。天使はアッラーの命令に忠実であり、間違えたり怠けたりすることはなく、アッラーに背くこともありません。

『・・・いや、(かれら天使は)栄誉あるしもべである。かれらは、かれ (アッラー)より先に告げることもなく、またかれの命令に基づいて行動するだけである。』預言者章 (第21章)26-27節

『天と地の凡てのものは、かれの有である。またその側近にいる者 (天使)は 、かれに仕えて高慢でもなく、疲れも知らない。かれらは毎日毎晩にかれを讃え、休むことを知らない。』預言者章 (第21章)19-20節

天使の任務にはさまざまなものがあります。ジプリール (ガプリエル)はアッラーからの啓示を運ぶ任務についており、ムハンマド (彼の上に祝福と平安あれ)に啓示を伝えたのもジプリールでした。 ミーカーイール (ミカエル)は自然と人間の糧を司る任務に、イズラーイール (アズラエル)は すべての被造物の魂を抜く任務についています。イスラーフィール (イスラフィル)は 審判の日の到来を知らせるラッパを吹く任務についています。

また、全ての人間には 2人の天使がついており、人間の所業を全て記録しています。

『見よ、右側にまた左側に坐って、2人の (守護の天使の)監視者が監視する。かれがまだ一言も言わないのに、かれの傍の看守は (記録の)準備を整えている。』カーフ章 (第50章)17-18節

その他にも多くの天使が、アッラーに命じられたそれぞれの任務についています。

3、クトゥブ (諸啓典)

アッラーは人間を正しい道に導くために、それぞれの時代と人々の必要に応じて多くの使徒を遣わし、啓典を下されました。 しかし時の経過とともにそれらは人々によって改ざんされ、失われていきました。そこでこれらの完成版として、終木の日まで全ての人間に有効なクルアーンを、アッラーはムハンマド(彼の上に祝福と平安あれ)を通して人類に授けました。ムスリムはクルアーンとそれ以前の諸啓典を信じます。しかし現在ある旧約・新約聖書は人間の手が加えられており、そのオリジナル性が保たれているとは認めません。クルアーン以前の啓典のうち、私たちに知らされているものには次のようなものがあります。

 

タウラート タウラート
タウラートはヘプライ語で律法と言う意味です。アッラーは預言者ムーサー(彼の上に祝福と平安あれ)を通してタウラートを下されました。タウラートの主な内容はイスラエルの民に対する十戒でした。
 
ザプール ザプール

ザプールはアッラーからダーウードを通して授けられた詩篇です。ダーウードはムーサーの授かった律法を引き継ぐように命じられていたので、ザブールには法に関することは含まれていません。

 

インジール インジール

インジールはイーサーを通して授けられたアッラーの啓示であり、当時すでに改ざんされていたムーサーの教えを正すためにイスラエルの民に下されました。インジールとは福音書という意味です。インジールの主題は汚れた心身を清めることでした。

その他、イプラーヒームやムーサーに授けられたものもあります。

これら諸啓典の完成版として下されたクルアーンには、諸啓典の教えの中で現在も有効な部分はすべて含まれています。ですからムスリムは現在ある聖書を学ぶ必要はありません。

 

クルアーン クルアーン

西暦 610年 のラマダーン月、アッラーは天使ジプリールを通してムハンマ ド(彼の上に祝福と平安あれ)に最初の啓示を下されました。それは次のような御言葉でした。

『読め、「創造なされる御方、あなたの主の御名において。一凝血から、人間を創られた。」読め、「あなたの主は、最高の尊貴であられ、筆によって (書くことを)教えられた御方。人間に未知なることを教えられた御方である。」』凝血章 (第96章 )1-5節

以降、預言者ムハンマド (彼の上に祝福と平安あれ)が 亡くなる西暦 632年まで、23年の歳月をかけてクルアーンは少しずつ下されました。クルアーンは人類に対する導きと正邪の識別の明証であり、また以前の啓典を確証するものです。それはアラビア語で啓示されたアッラーの御言葉であり、人間の作った書物ではありません。文盲であったムハンマド (彼の上に祝福と平安あれ)にもたらされたクルアーンは、当時のアラプの文学者たちを驚かせる完ぺきで美しい文章でした。

『ラマダーンの月こそは、人類の導きとして、また導きと (正邪の)識別の明証としてクルアーンが下された月である。・・・』雌牛章(第2章)185節

『われは真理によって、あなたがたに啓典を下した。それは以前にある啓典を確証し、守るためである。・・・』食卓章 (第5章)48節

そして最後の啓典であるクルアーンは、終末の日まで、アッラー御自身によって改ざんや紛失から守られています。

『本当にわれこそは、その訓戒を下し、必ずそれを守護するのである。』アル・ヒジュル章 (第15章)9節

4、ルスル (使徒たち)

アラビア語でラスール (複数形はルスル)と は遣わされた者、使者という意味であり、一方ナビーとは情報をもたらす者という意味があります。ここでは前者を使徒、後者を預言者と訳します。

イスラームにおいては、この二つの語は「神の啓示によって与えられたメッセージを人々に (預言者ムハンマドの場合は全人類に)伝える人」という意味を持ちます。従って、イスラームで使われている「預言者」という言葉には 「予言する」「未来の出来事を予知する」といった意味は含まれていません。また、彼らはアッラーによって選ばれた者たちであり、自ら望んで預言者になったわけでも、修業によって預言者になれたわけでもありません。

アッラーはこの世界と人間を創造したまま、放っておくようなことはしませんでした。アッラーは人間を導くために、それぞれの時代のそれぞれの民族と地域で人々の間から預言者を選び、唯一の創造主に帰依する正しい生き方を教えました。ムスリムは、アッラーによって多くの預言者と使徒が遣わされたことを信じます。

『本当にわれは、各々の民に一人の使徒を遣わして「アッラーに仕え、邪神を避けなさい。」と (命じた)。・・・』蜜蜂章 (第16章)36節

『言え、「私たちはアッラーを信じ、私たちに下されたものを信じ、またイプラーヒーム、イスマーイール、イスハーク、ヤアコープおよび諸支族に下されたものを信じ、またムーサーとイーサーと (その他の)預 言者たちに主から授かったものを信じます。私たちはかれら (預言者たち)の間に、どんな差別もしません。私たちはただ、かれ (アッラー)に服従、帰依します。」』雌牛章 (2章)136節

そして、これら預言者たちもの封絨として遣わされたのがムハンマド (彼の上に祝福と平安あれ)です。ですから、預言者ムバンマド (彼の上に祝福と平安あれ)以降は預言者も使徒も現れません。

『ムハンマドは、あなたがた男たちの誰の父親でもない。しかし、アッラーの使徒であり、また預言者たちの封減である。・・・』部族連合章 (第33章 )40節

このように多くの人間がアッラーによって預言者または使徒として選ばれており、そのうちの何人かはアッラーによってその名が明らかにされています。

ムスリムにとって預言者または使徒であったと信じる義務のある人物は、アッラーによって明らかにされた人物だけです。それ以外の預言者や使徒に関しては、その名前や時代などを知ることは出来ません。

5、アルヤウム・ル・アーヒル (終末の日/審判の日)

ムスリムは終末の日の到来とそれに続くアッラーの審判があることを信じます。人間は誰でも必ず死を迎え、審判の日まで墓の中に留まります。そして天使によって終末の日の到来を告げる最初のラッパが吹かれると、すべての人間は死に絶えます。そして 2度目のラッパが吹かれると、すべての人間はアッラーによって再び魂をその身体に吹き込まれ、復活します。

その後、アッラーによって人間は現世での行ないを清算されます。誰でもアッラーを唯一であるとし、アッラーとその使徒に従った者は易しい清算を受けますが、多神崇拝者や不義を行なった者は厳しい清算を受けます。善行と悪行が秤にかけられ、それに応じて楽園の民は楽園へ、業火の民は業火へと入れられます。

アッラーは終末の日について次のように語っておられます。

『かれらは、アッラーを正しい仕方では尊崇しない。審判の日においては、かれは大地の凡てを一握りにし、その右手に諸天を巻かれよう。かれに讃えあれ。かれは、かれらが配するもののはるか上に高くおられる。ラッパが吹かれると、天にあるものまた地にあるものも、アッラーが御望みになられる者の外は気絶しよう。次にラッパが吹かれると、見よ、かれらは起き上って見まわす。その時大地は主の御光で輝き、(行ないの)記録が置かれ、預言者たちと証人たちが進み出て、公正な判決がかれらの間に宣告され、(少しも)不当な扱いはされない。人びとは、その行ったことに対して、十分に報いられよう。かれは、かれらの行った凡てを最もよく知っておられる。

不信者は集団をなして地獄に駆られ、かれらがそこに到着すると、地獄の諸門は開かれる。そ して門番が言う。「あなたがたの間から出た使徒は来なかったのですか。(そして)主からの印をあなたがたのために読誦し、またあなたがたのこの会見の日のことを警告しなかったのですか。」かれらは (答えて)言う。「その通りです。そして不信者に対する懲罰の言葉が、真に証明されました。」(かれらは)「あなたがたは地獄の門を入れ。その中に永遠に住みなさい。」と言われよう。何と哀れなことよ、高慢な者の住まいとは。

またかれらの主を畏れた者は、集団をなして楽園に駆られる。かれらがそこに到着した時、楽園の諸門は開かれる。そしてその門番は、「あなたがたに平安あれ、あなたがたは立派であった。ここにお入りなさい。永遠の住まいです。」と言う。かれらは (感謝して)言う。「アッラーに讃えあれ。かれは私たちへの約束を果たし、私たちに大地を継がせ、この楽園の中では好きな処に住まわせて下さいます。」何と結構なことよ、(善)行に勤しんだ者への報奨は。

あなたは見るであろう、天使たちが八方から玉座を囲んで、主を讃えて唱念するのを。人びとの間は公正に裁かれ、「万有の主、アッラーにこそ凡ての称讚あれ。」と (言う言葉が)唱えられる。』集団章 (第39章)67-75節

『あなたがたは、アッラーに帰される日のために (かれを)畏れなさい。その時、各人が稼いだ分に対し清算され、誰も不当に扱われることはないであろう。』雌牛章 (第2章)281節

『それで秤が (善行のため)重い者たちは、至上の幸福をえる。また秤が軽い者たちは、魂を失い、地獄に永遠に住む。』信者たち章 (第 23章 )102-103

『またあなたは、自分の知識のないことに従ってはならない。本当に聴覚、視覚、また心の働きの凡てが (審判の日において)尋問されるであろう。』夜の旅章 (第17章)36節

6、カダル (定命)

ムスリムはカダルを信じます。つまり、私たちにとって善いことも悪いことも、すべてアッラーによって定められたものであるということを信じます。アッラーこそ望まれたことを実行する者であり、アッラーが望まれたこと以外は何ひとつ起こり得ません。なにものもアッラーの御意志から逃れることはできず、この宇宙の中で何ひとつとしてアッラーの定命から逃れられるものはありません。

また、アッラーの定められた法則によらずに何ひとつとして動かすことは出来ません。アッラーこそしもべの従順な行為と不義の行為を創られた御方であり、誰一人としてアッラーによって定められた事柄を避けることは出来ず、また誰一人 として天啓の書に書かれた事柄から逃れることは出来ません。

アッラーは望まれた者に慈悲によって導きを授け、また望まれた者に英知によって迷いを授けます。

私たちは自らの意志で日々あらゆることを選択し行動していると自覚しています。それらに関して何ものからも強制されていると感じることはありません。また、私たちは自らの意志で行なっていることと、震えや心臓の動きのように自らの意志とは関係なく動いていることを区別しています。 しかし私たちの意志も能力も、実はアッラーの御意志と権限の許にあるに過ぎません。なぜならこの宇宙はアッラーの所有であり、何ひとつとしてアッラーの知識と意志の外にあるものはないからです。

『だがアッラーが御望みにならなければ、あなたがたは欲しないであろう。・・・』人間章 (第76章)30節

しかし、一方でアッラーはかれのしもべに命令事項と禁止事項を教え、自分の行為を自分で選択するようにされました。アッラーはクルアーンでこう語っておられます。

『・・・だから誰でも望む者は、主の御許に戻るがいい。』消息章 (第78章 )39節

つまり、主の御許に戻ることを望むか望まないかは人間に任されているのです。また、人間の能力に関しては次のように語られています。

『アッラーは誰にも、その能力以上のものを負わせられない。(人びとは)自分の稼いだもので (自分を)益し、その稼いだもので (自分を)損なう。』雌牛章(第2章 )286節

そして、審判の日には私たちは皆、自分の行為について責任を問われます。『もしアッラーが御好みならば、かれはあなたがたを一つのウンマになされたであろう。だがかれは、御望みの者を迷うに任せ、また御望みの者を導かれる。あなたがたは、行ったことに就いて、必ず問われるであろう。』蜜蜂章 (第16章)93節

ですから、私たちは努力を止めたリアッラーに対する不服従や悪行を「自分はこのように定められていたのだ」と言ってカダルのせいにすることは出来ません。預言者 (彼の上に祝福と平安あれ)は言っています。

「あなた方のうち楽園の住人であるか火獄の住人であるか、その住処となる場所が書き留められていない者はない。」そこで民の中の一人の男がこう尋ねました。「アッラーの使徒よ、それなら私たちはカダルに身を任せればいいのではないですか。」彼は答えました。「そんなことはありません。誰でも定められたようにすることが易しいように創られているのですから。」(プハーリーの伝えるハディース)

このように、アッラーの使徒 (彼の上に祝福と平安あれ)は カダルを理由に努力を止めることを禁じています。また、カダルは私たち人間には隠されたものであり、それらは実際に起こってからでしか私たちは知ることが出来ません。一方私たちの意志はそれらが起こる前にあります。つまり私たち人間にとっては、カダルの知識に基づいて行動を意図することは不可能なのです。誰でも自分の知らないことを理由にすることはできませんから、カダルを理由に不義を行なうことはまったく受け入れられないことなのです。

ですから私たち人間は、アッラーのカダルを信じると同時に、正しく生きるための努力を怠ってはならないのです。

 

イスラーム アキーダとイバーダ』より